人が音楽を聴く。
その時が音楽的時間であると想定する。
特に再生装置によって音楽を聴く際には、その人それぞれの居る場所の状況、個別の心理状態などに関わらず、作曲家と演奏家とその音楽を作りコピーした人間達が作り上げたコードにより聴覚は侵犯される。
もっともリスナーには音源を選択する自由、音量を調整する自由、スイッチを オフにする権限は与えられているのが。
また、人がもっと積極的に音楽を聴こうとする場合、人はコンサートホールへ足を運ぶ。そこには期待された音楽的時間が存在しているはずで、その期待を 裏切らない形で演奏家は音楽的時間を構成しなければならない。この期待し予 想された音楽的時間とそれを凌駕するあるいは水準の上下を提供する、これらの契約関係が成立し、結果「今日の音楽的時間はすばらしかった。」あるいは「今日の音楽的時間はちょっと良くなかったね。」等の言葉が排出され金銭の授受が行われる。そこでは音楽的時間の反復性がコードとして存在し、(新作発表の場合も同様に)その反復された時間に呼称がつけられ、あるいは主体の名前が付与されることとなる。
ちなみに、反復性と呼称を持たない新規な音楽的時間にただ好奇心によって聴 衆を動員することがいかに難しいかは、ここにおられる実験音楽を志すものは 痛感していることだと思います。
さて、今日はこの人のある一定の時間を占有する音楽的時間についてお話ししてみたいと思います。
始めにフランンツ・ヨーゼフ・ハイドンの交響曲101番の二楽章、「時計」と俗称されている楽章を聴いてみましょう。
1. Joseph Haydn
from Symphony in D, No 101, second movement Andante
Frans Bruggen with Orchestra of 18th Century.
これ以前に時計を題材にした曲はあるかと思うのですが、私の不勉強さとこの曲が持つポピュラリティーから選択しました。(ちなみこの「時計」というタ イトルは19 世紀になってつけられたもので、ハイドン自身はこの交響曲の次の楽章「メヌエット」を転用して「時計小曲」という室内楽を作っていま す。)
プラハ市役所の有名な大時計を想像するまでもなく、時間の管理は常に宗教上の管理者及び王そしてあらゆる為政者にゆだねられるものでした。これは近年の研究でマヤ文明も含められ、あらゆる文化圏に共通する傾向です。つまり時と日時の管理と支配は権力を代表する一要素になっていたわけです。
教会の鐘、日本では寺の鐘、そして市庁舎にくくりつけられたあらゆる時計。(それらは時に人形達によって踊られ、時を告げるエンターテインメントを有します。)時の進行と使用方法は庶民には振り分けられておらず為政者が管理するものだったのです。
曰く、さて起床の時間ですよ。労働を始める時間ですよ。就寝の時間ですよ、セックスによって国力増強に貢献すべき時間ですよ。そして告白の及び納税の時間ですよ。そして処刑の時間ですよ、等々
私が今、興味があるのはそれらの個に作用する時間の権力構造にあるのではな く、かつては日照と水量および砂によって沈黙と水の流れる一定のラウンド・スケープ的サウンドだった時の流れが、時計という歯車の構成による機械出現 によって60進方による一秒ずつに立てるサウンドにあり、このコチコチという 一秒ずつの進行という音がどれくらい音楽に影響を与えたかにあります。
ご存じのようにヨーゼフ・ハイドンは宮廷音楽家として王に使えました。
このテンポ60にすべき曲は、1794年にロンドンで初演されました。この時期は時計の技術革新が盛んであった時代ゼンマイの発明はもちろんすでに1763年 にはスイスで自動巻時計が開発されています。しかし、ベートーベンが依頼し たメトロノームの出現以前で、特にテンポ60という指定はベルリンにある直筆 譜にありません。しかし、彼の領主および貴族に献呈すべき曲としては、確かにふさわしいものであったのでしょう。
そして、機械時計が最も進化した時代は、大航海時代の英国で、時計の開発は航海による侵略にとって必要なツールでした。
(聴覚を失いつつあったベートーヴェンのが依頼して作らせたメトロノーム氏への謝辞としての曲「拝啓メートロノームさん」といものもあるのですが、これをここでお聴かせするのには、あまりにも。どういいましょう。)
私が常々不思議に思うのはヨーロッパ音楽が持つ小節という記譜法です。この発祥の歴史につてはここにいらっしゃる方の方が詳しいと思いますので私が語ることができませんが、この狂おしいまでの小節の反復は、現在のジャズ・ロック・ポップ音楽ではではドラムやビートのよって今も脈々と継承されていま す。ストビンスキーは小節の活用に極めて実験的な試みをしましたが、小節の存在については一切の疑いを持ちませんでした。
しかし、この小節という記譜法は日本の伝統音楽には無かった考え方です。
日本に時計がヨーロッパからプレゼントされたのは16世紀にさかのぼります。が、その時計が刻む音は庶民には伝わらなかった。時計は日本の王の貴重な玩具として封印され、その音は閉ざされたのです。
そのため、日本音楽は時を分割するという観念をしらずに日時計の影を見つめる時のように、時は音が無く進行し音楽は時間の反復性からは解放されていました。また例えばインド音楽では音楽は高度な数学に基づいて構成されこれらの複雑なカウントは時計の刻む音からは完全に解き放たれた音楽的時間を紡ぎ出します。
さて、次にフランツ・シューベルトのピアノ三重奏曲第二番の二楽章をお聴かせします。
2. Franz Schubert
from Piano trio No.2 in E flat, D929, second movement Andante con moto.
The Schubert Ensemble of London.
これもだいたいテンポ60の曲だと思うのですが、この曲を選んだ大きな理由 は、スターリン・キューブリックの映画「バリー・リンドン」に使用されたことにあります。ウイリアム・サッカレーの17世紀を舞台にした小説を原作とするこの映画は、彼の「2001年宇宙の旅」に匹敵する力作なのにもかかわらず 不思議なことにヨーロッパではあまり知られていないようです。ごらんになられた方はいらっしゃるでしょうか?
(ちなみに私が初めてジョルジュ・リゲッティとであったのは彼の「2001年宇宙の旅」によってです。)
この映画は上映当時日本でもあまり理解されたとはいえません。ただひとり、在日のアメリカ人映画評論家兼映画作家であるドナルド・リッチーが「これはハリウッド或いはその他の映画の時間進行に対する挑発であり新たな冒険である。」と評していたことを記憶しています。
もうひとつそれますが、音楽的時間と称していながら映画的時間もここで私は混同させてしまいたいと思います。なぜならば、私がもっとも嫌っているのは 芸術作品上にある制度的なカテゴラリー/区分であって、音楽と映画はもちろ ん縦の線では区分けできるのかもしれませんが、いつもそこに横の横断線を引きたいと私は望んでいるからです。
この曲で進行していく音楽的時間これは映画「バリー・リンドン」上の時間も加味してですが。それは避けようもなく進行していく我々の絶対的時間、不可逆で反復不可能な時間の存在です。
我々の人生は我々の身体から解放されないように一瞬たりとも後戻りすること はできない時間に拘束されています。映画のように記憶の画像をもう一度みることもできなければ、ソナタ形式のように同じテーマをもう一度再現することは叶わないのです。
マリー・アットワネットが退屈かつ優雅な生活で「一日は長いわ!なぜ時計の針が二回12の上を通り過ぎないと一日は終わらないのかしら?」とつぶやく絶対的な時間の存在。
ニュートンからアインシュタインまでの物理学は三次元+時間の四次元で概ねの事象を解決することができた。特殊性相対理論が抱えた矛盾もアインシュタインは死ぬまで3次元+時間の進行で解決しようと試みていた、しかし、現在物理学では11次元の混在の必要性を予想し立証しつつあります。現代数学ではも はや常識となっている多様体論=Differentiable Manifolds(多次元の想定と、下位次元から如何に上位次元を算出する方法)に、物理学が接近すること によって現実の時間の反復可能性を示唆しはじめています。これらは極めて微細な事象によってーおそらくは人の認知不可能な事象で起こることなのでしょ う。
つまり、+1として存在する音楽的時間の可逆性は認知可能な水準では不可能だと言わざるを得ないのです。
私の友人でありかつ師匠である実験映画作家、飯村隆彦氏は70年代にフィルムを使用して時間の可逆に挑みました。スクリーンにはただ進行する正数が映し出されます。時間が進行します。
次に彼はその時間をさかのぼりたいと考えます。フィルムを逆回ししても時間 の進行を止めることはできません。結局彼は正数にマイナス記号をつけることで妥協しました。上演時間をゼロに戻すことは、当然のことながら不可能だったのです。
(そのフィルムを借りて来ようと考えたのですが、ご想像がつくようにとても退屈な映画なのでやめました。)
しかし、この慣れ親しんだ三次元+時間の進行は、我々にもうひとつ決定的な要素を寄与しました。それは始まりと終わりです。
あらゆる音楽は始まりそして終わります。我々の人生がそうであるように。
ここでグスタフ・マーラーの交響曲第9番に音楽を変えます。(ドイツーオーストリア音楽ばかりで恐縮します。この部分はだれの音楽でも良かったのですが、つまり死を目前に控えた作曲家の作品であればどれでも。でも演奏はポーランド・ラジオ・シンフォニーのものなのでご容赦下さい。)
3. Gustav Mahler
from Symphony No.9 in D, fourth movement
Michael Halasz with Polish Natinal Radio Symphony Orchestra
心臓病による死の恐怖を目前に控えた人物の音楽です。つまり、時計とは別の時を刻む音、鼓動音に恐怖する人物の音楽です。
困ったことに、生物は神よりも早くアポトーシス=apoptosisという細胞の時 限装置を開発することによって個体の死を発明しました。目的は単性生殖および近親相姦による個体の反復を妨げるためだと言われています。
我々は生誕に対しては無自覚ですが、死に対しては意識せざるを得ません。
これは、音楽的時間と最も異なった部分です。音楽家は常に始まりと終わりについて十分に注意をはらうことができます。
ここではじめて、絶対的な時間の進行から逃れる個別の時間が発生します。
我々の一秒は、個々のとって等価な時間なのか否か?様々なイメージを増幅させることができます。
「死の宣告」を受けた者の一秒。休暇を得て木陰で寝そべる一秒。リミットを得た一分間、もしくは解放された者の一分間。
グスタフ・マーラーまで19世紀の音楽家が描こうとする時間はそのような時間の持つ個的な強度の変遷を描こうとしていたのに違いありません。
始まりと終わりがそのドラマを引き受けます。個別に時間を所有できるという キルケゴールからハイデッカーに引き継がれる現象学的個別の時間の発明です。
この発明は現在の音楽的時間の進行を支える基本となっています。
ある個人が所有する時間が他者の時間とは別質であること。
この観念を信じるが故に音楽家は他者に対して自分の時間を強要する権利があると確信しています。
不整脈による時間進行を恐怖し昇華するマーラーの恐怖を、乱れた時間を刻む彼の鼓動が時計のように正確な分割であって欲しい願う彼の時間を、多くの健康体である他者がその時間をなぞり彼個別の恐怖を共有するのです。
4. Gustav Mahler
from Symphony No.10, Adagio
Claudio Abbado with Wiener philharminic
ここがクラクフ音楽大学なので、敬意を持ってペンデレツキの「広島の犠牲者のためのレクイエム」を聴きましょう。
5. Krzysztof Penderecki
from Threnody for the Victims of Hiroshima
Play unknown
私が聞いたエピソードなので正しいかどうか教えて頂いたいのですが、この曲の諸般でははただ演奏時間を明記しただけだったと記憶しています。確か「レクイエム8分26秒」と、どなたかのアドバイスによって「広島の犠牲者のためのレクイエム」というタイトルがつけれられ、このことが功を奏して今や彼は日本で最も親しまれている音楽家となられています。
それは別として、先ほどお話しした現象学的に予見できる死の時間を喪失してしまった広島の人々の終焉を考えてみましょう。
これはポーランドおよび東ヨーロッパでおこなわれたドイツ人による周到な抹殺計画とは異なります。ドイツ人の抹消計画は日本の対中国及びアジアへのプ ロジェクトと似ている部分もあって前時代的な官僚的かつ集合的意志を感じ取ることができます。
しかし、広島に於いては、1945年8月6日の晴れた朝8時15分の1.4秒間に中心 温度は4,000度に達し20万人の人々が予測不可能な終焉を瞬間として迎えました。つまり、彼らの個々の終わりという現象学的な時間を物理学的テクノロジーによって合理的に奪われてしまったのです。ここには音楽的時間が関与でき るすきはありません。時の進行を奪われた瞬間は存在を不可能にしたのです。
留意して頂きたいのですが、ここで私は一切政治的発言をしていません。もちろんナチスやその後の多々の政権によっておこなわれた虐殺や陵辱の数々、および広島・長崎への原爆の投下を非難することは人間としての当然の義務ですが、私は音楽的時間について話しています。
時間を喪失した音楽。これは決して、ジョン・ケージが行った「4分33秒」の無音によるものではなく、ここには音楽的時間は豊かに進行しています。私が 畏怖するのはヨハン・セバスチャン・バッハの「フーガの技法」の最終楽章です。私にはこの音楽の喪失の瞬間がグスタフ・マーラーの死への恐怖の饒舌さにはるかにまさり、絶対的な時間の進行と存在を思い知らされる極めて救われ がたい時間への喪失への恐怖の瞬間となっています。
6. Johan Sebastian Bach
from "The Art of Fugue" BWV 1080
Fuga a Soggetti Fretwork
それでは、これらの音楽的時間を重ね合わせ折り畳み今、ここでの私の音楽的 時間をみなさんに強制すさせていただくことによって、この時間を終了させていただきたいと思います。
7. Tetsuo Furudate
"Time and Music"
あがとうございました。
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